法泉寺のしおり

浄土真宗本願寺派
佐賀教区松浦組
 住職 桃谷法信
佐賀県西松浦郡有田町上本乙2883
TEL&FAX 0955-46-3748
http://www.momoge.org
メール:momoge0828@gmail.com

毎年、御正忌前の 1月8日頃
お磨きとお華束盛りが終わっての
記念撮影。
この後、新年会をします。

毎月13日は、むりょうじゅ会です

子どもたちが集まるお寺です。
中学生や高校生は、バンド練習。
門徒の数は少ないけれど、
みんな協力的。和気藹々です。

 先々代、法隆師の記されたものには、曲川郷本村の舞原に法徳庵というお庵があり、幕末のころ佐賀高木瀬 報恩寺衆徒 桃谷自牽師が布教活動を始められ、雅楽なども教えられていたそうです。
 明治の初め、大山村平瀬の真言宗龍泉寺が現在の大木に移転する際、本堂を譲り受けて、本村の中心に位置していた墓山と呼ばれていた現在地に移築されたそうです。(150年ぐらい前)
 本堂は、元禄時代のもので、400年以上前の木造建築物です。
 戦後、宗教法人法により、浄土真宗本願寺派の寺院となり、法隆師、徹城師と受け継がれ、平成元年から現住職となり、御法義相続させていただいています。
 門信徒の数は、少ないのですが、総代さんはじめ、門信徒の方々がとても協力的で、お寺の行事や法座には、他寺の門徒の方もさそってお参り、お手伝いしてくださいます。

ももちゃんの西有田史跡探訪マップへ
法泉寺ホームページをご覧ください。
momoge.org
桃谷法信で検索すると、ホームページの
どこかにアクセスします。
西有田町史には、次のように記載されています。

▽法泉寺
起源は明らかではないが、初代または二代庵主のものと区民が伝える墓碑が下迎にある。
それに「智教師、嘉永六年癸丑三月二十日 施主 当庵三代○乗」とあり、嘉永以前に始まることは確かなようだ。所在地は舞原から下迎、さらにもう一ヶ所移った末、明治以前に区の中央に当たる現在地に落ち着き、代々、仏法の布教に努めてきた。
 元は法徳庵といったが、昭和十四年に宗教団体法が公布された際に本村布教所と改め、戦後の宗教法人令をうけて二十三年二月に寺院を建立して法泉寺となった。初代住職は桃谷法隆、二代住職が徹城。
 法泉寺の本堂は、明治二十九年に大木の龍泉寺が改築された際に移転建立したものだが、県文化財専門審議会委員木下之治の調査で、組物などからみて、創建年代は元禄年間前後であろうと鑑定された。
 構造は桁行三間、梁間五間の単層の堂で、正面に一間の向拝が付いている。入母屋造り、妻入りで、屋根瓦は後に
補い、現在は桟瓦ぶき。妻飾りは虹梁の上に大瓶束が乗る簡単な構造で例が少ない。虹梁の下に波にウサギ、大瓶束の左右に瑞雲などの彫り物があるが、いずれも優れた作である、という。
 法泉寺では、雅楽が演奏されていた時期がある。楽器は大太鼓、鼓、鐘、笙、横笛、縦笛など。先々代庵主自牽が地元の若者を指導して養成したもので、寺の法事のほか、村の慰霊祭、招魂祭、村葬や裕福な家庭の葬式などで演奏した。
 奏者であった岩永安一、岩永栄一(いずれも上本村)によると、演奏する時は紋付袴姿で、横笛が吹き出したあとを縦笛がつけ、笙がその合間を切らさぬように吹奏した。自牽は楽譜も書き、楽器も器用に作ったという。曲川地区はもちろん有田、伊万里にも招かれた。平戸や離島から呼ばれることもあり、そんな時には五日も七日泊りがけということになる。秋の収穫期や春の田植えの時期と重なると、メンバーは農家の主人でもあるので困った。
 珍重された雅楽も大正末で途絶えた。大正九年に自牽が亡くなった後は指導者が居らず、仏事や神事でもだんだんと利用されなくなったためである。











 

土曜学校 
毎週土曜午後5時〜6時

子ども雅楽もやっています。

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田んぼの中にぽつんと一軒
大きないちょうの木が2本
(樹齢約150ねん、県の名木指定)
本堂は、元禄時代のものです。
(築400年、150年前に現在地へ)