しんらんさまの不思議な言葉

その21、南無阿弥陀仏を称うればB

前回と前々回の2回にわたって、尊号真像銘文に出てまいる称名(南無阿弥陀仏を称えること)の功徳についてみてまいったが、今回から現世利益和讃に出てまいる称名念仏について、親鸞さまの讃えられたことばを味わってまいることにいたそう。

この現世利益和さんは、浄土和讃に編入されてある15首の和讃でござる。念仏の行者に法の自然として自然に備わる現世の利益があることを讃えられてあるのでござるが、これは、決して凡夫衆生があてにしたり、期待したりするものではなく、自然に備わるものであるから、お念仏申しながら、仏恩をよろこぶことが大事なのでござる。  はじめの2首は、出典と勧進でござる。

阿弥陀如来来化して、息災延命のためにとて

  金光明の寿量品 ときおきたまへるみのりなり

と阿弥陀如来が、お釈迦さまの説法を通して、金光明経というお経の寿量品(じゅりょうぼん)というところに、説きおかれた出典を明らかにし、

山家の伝教大師は、国土人民をあわれみて

  七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏を称うべし

と、天台宗の伝教大師最澄さまも、七難消滅の誦文として、南無阿弥陀仏を称えることを勧めて下さっているのでござる。

さて、それでは、実際に、金光明経の寿量品には、南無阿弥陀仏のみ名を称えれば、どのような功徳(ご利益)があるのか、親鸞さまのやさしい日本語で書かれたご和讃
15首を順に拝見拝読しながら、味わってみることにいたそう。

一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀靴をとなふれば

  三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり

 三世というのは、過去・現在・未来を云い、過去の業報(業とは、行為のことで、
身(しん:行動)、口(く:言動)、意(い:心の中で思うこと)の三業を云い、その報い)によって、現在があり、現在重ねつつある業が、未来の因として運ばれていく、すなわち、仏教は、業動思想なのでござるが、私が言ったり、したり、思ったりすることすべてを親鸞さまは、重障(じゅうしょう:重い障り=煩悩具足:ぼんのうぐそく)と、とらえられたのでござる。そして、その罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫こそ、救いのめあてであるという48願おこされたのが、阿弥陀如来であり、「み名を称えよ、必ず救う」の呼び声が、南無阿弥陀仏の名号となって私の中に入り込み、口に出て下さるのが、南無阿弥陀仏のお念仏なのでござる。

 重い障りは消えないが、「必ず転じて」とあるように、煩悩即菩提(煩悩が菩提に転じられる)ということを、氷と水にたとえられ、

罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて

    氷多きに水多し さわり多きに徳多し

と、讃され、阿弥陀如来の本願力のあたたかさを悦ばれているのでござる。

(1997.8 むりょうじゅ163)

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