しんらんさまの不思議な言葉

 

その3、父母の孝養のために念仏しない

 

 お通夜や葬式に参ると、ほとんどの人が、亡くなった人の遺体、あるいは写真に向かって手を合わせ焼香してござる。

「安らかにお眠りください。」「お疲れ様でした。」「なんで死んだ。」「早かったね。」「残念でなりません。」「大往生やったのう。」・・・・などと、さまざまな思いで合掌されておられるのじゃろう。

 しかし、なかなかお念仏が出てきなさらん。お念仏の代わりに、?を「チーン」と鳴らしておられる方もござる。(あの?は、やたらにたたくもんではない。お経を読む時の調声のためにあるのじゃ。) まさか、死んだ人に「こっち向いてよ。私が来たよ。」という合図でもあるまいに・・・・・ 中には、お念仏が出てきなさるひともござる。

しかし、ほとんど自力の計らいじゃわいの。「安らかに・・・」「ご冥福をおいのりします・・・」など、私の願いや祈りの思いが見受けられるのでござる。

 お念仏は、そんなもんやない。あくまで、阿弥陀如来の呼び掛けに応じて、ご本願、お慈悲に対する報謝の念仏なのでござる。それは、嘆異抄にでてまいる次のご文で明らかでござる。

一つ、私(親鸞)は、自分の父や母が助かるようにとの思いでお念仏したことは一度たりともありません。なぜならば、この世に生れ出たおたがいは、これまで、生まれ変わり死に変わりしてきた間に親となったり、子となったり兄弟となったりしてきているのですから、おたがいが次の生に(この世のいのちを終えて、つまり、お浄土で)早く仏となって、苦しみ悩める者をまず救わねばならないのです。自分の力を励む善ならば、お念仏を称え、その善根(悟りのたね)をふりむけて、父や母をたすけることもできましょう。しかし、浄土真宗のお念仏は、そのような“自力の念仏”とはちがいます。自力をすて、阿弥陀様にすべてをおまかせし、この世のいのちが終わって浄土に生まれ、仏となったならば、大悲をおこし、どのような苦しい境涯(世界)にある人々をも自由自在に縁の深い人々をまずたすけるのです。

(藤岡正英著「わたしの嘆異抄」より引用)


 4歳の時に父を、8歳の時に母をなくされた親鸞さまが父や母を思われないわけはござらん。人一倍
父母に対して思いの強い強い親鸞さまだったからこそ、倶会一処の世界(お浄土)へ、そのまんま、信心一つ、念仏ひとつで往生できると約束された弥陀の本願をよろこばれたのでござる。

 念仏は、けっして、父母の孝養の為やわが往生の為に称えるものではないのでござる。

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